野口英世生誕126年記念日に寄せて


スペイン語での発表


1876年11月9日 日本の東北の、雪の降る小さな農村に、最も貧しい農家の長
男として、英世(幼名 清作)は父 佐代助、母 シカの元に生まれました。

1歳半の時に囲炉裏に落ち、左手にやけどを負ったのはよく知られている通りです。
その小さな体と心にいやしがたい傷を負いながら、必死に絶望的な運命を切り開いて
いった野口英世博士の人生で、彼を支えた、たくさんの人々がいました。そして博士
が終生忘れ得なかったふるさと会津。今日はみなさんに、彼を巡る人々について、い
くつかのお話をしたいと思います。

野口英世博士の人生は他のどの人と比べても、とても違っているので、まるでたった
一人で生き、たった一人で死んでいった特別な人の人生のように思われるでしょう。
でも実はそうではなくて、博士はたくさんの会津の人々の想いを託されて、皆の分ま
で生きた人なのです。私達はみな、一人では生きていませんね。私達を生んでくれた
お父さん、お母さん、家族がいて、友人がいて、ふるさとがあり、祖国があり、そし
てこの地球上の、人類という大きなつながりの中に生きています。もちろん、人だけ
じゃない、草や樹や、森や川や動物たち、すべて命あるものは大きなつながりの中に
生きています。

そして人間として生まれた私達には、一人一人に遥かな可能性がある、そのことをど
うか、信じて欲しい。信じることが出来たなら、けして忘れないでいて欲しい。心に
強く描いた夢は、いつか必ず形になる。私達にはその力がある。

野口英世博士の人生は、それを真似るために存在しているのではありません。

むしろ、あまりに激しく人間的で、時にお酒におぼれたり、失敗を繰り返したりして
います。でも、幾度もの絶望的な状況の中でも、彼は決してあきらめることなく、必
死に運命を切り開いていきました。まわりの人々も彼をあきらめずに支えつづけたの
です。どうして、彼にはそれができたのでしょう?それは彼には終生に渡り彼を突き
動かし歩ませつづけた、強い思いがつねに心にあったからです。それを「志」といい
ます。19歳の英世は、ふるさとを後に東京へ旅立つとき、生家の柱にこう刻みまし
た。

『志を得ざれば 再び この地を踏まず』

「志」とは、自分の命をこの人生において何のために使うかという問いかけでもあ
り、「志を得る」とは、こんな自分にも活躍の場を与えて欲しいという切なる願いで
した。

それではいかにして彼は志を得たのでしょう?実は志を果たすことより、それを得る
ことの方が、とても難しくて大切なことなのです。そうは思いませんか?

それでは英世の志とは何だったのでしょうか?

はじめ英世は医者になろうとしました。そのために医術開業試験に見事に合格したの
ですが、それでも博士の心は満足を得ることができず、かえって不安と絶望感に襲わ
れます。そして開業するにもお金はなく、不自由な左手でどれほど患者が来てくれる
だろうかと考えたときに、かねてから考えていた細菌学者になろうと決心します。学
者として世界的に有名になったあとも、次の研究のテーマに悩みました。志はまだ満
足を得ず、別の何かを求めていました。もっとなすべき使命があり、そのためにさら
に努力すべきことがあると思われたのです。アメリカで活躍していた野口英世博士
が、母に会うために帰郷する際に、恩師小林栄先生に書き送った手紙には、こう記さ
れていました。

「今回の帰国は一時のことで再渡米する覚悟です。私は日本で有名になり、安定した
官職に付くことなどでは、天の使命を果たすことができません。そのようなことは世
界の大局から見れば、児戯に等しいことと申し上げます。それより世界的に有名な学
者を一人出すだけで、日本人に対する侮蔑はなくなります。いや日本国や日本人種の
みならず、更に進んで世界人類の為に先生の教えを活かしたいのです。もっと世界の
大勢を動かす活躍に大いに腕を振るってこそ自分の志はあります。」

英世を深い愛情でいつも包んでくれたのは、母でした。無条件に子の成長と幸せを願
うのは、いつの世も母です。我が身にかえて子の幸せを思う母の愛情は深く、しかし
狭くて不自由であるかもしれません。でもそれだからこそ感謝しつつ、やがて子は母
のもとを離れていきます。別離は生命の源です。

まして英世は左手にハンデがあった為、ものすごい努力で運命を自ら切り開かなけれ
ば、とうてい一人では生きていけませんでした。ふつうは背負う必要のないその運命
は、よりによって子を守るべき母の不注意で与えられた試練だったのです。それは母
シカにとっても試練でした。

しかし、男手に混じって人の何倍も忙しく働かなくてはならなかったシカを不注意と
責める人は決していないでしょう。でも、シカは自分を責めました。そしてこの身は
どうなろうとも、清作の成長のために生涯をかけて償おうとするのでした。

この、母としての強い願い、懺悔こそ、母シカの得た迷うことのない志であり、
彼女はその後の日々の苦労で立派に志を果たしたといえるでしょう。

また英世の父、佐代助の人生もまた、彼にとってなくてはならないものでした。なぜ
なら、英世の人間的魅力のほとんどは父から譲り受けたものだからです。

この父なくして野口英世はない。このことをどうかわかってほしい。急場をしのぐ機
知、人を放って置けなくする好人物ぶり、物欲のなさ、何よりその知性や発想力、類
稀な語学の才能も、父の血をひくものでした。まじめで誠実なだけでは、人間ダイナ
モ(発電機)と呼ばれた野口英世博士は存在しなかったでしょう。

父佐代助は根っからの優しい人でした。そのために、同じ経験をした他のだれよりも
傷付きアルコール依存症になったのです。それにはこんな背景があります。幕末から
明治へと大きく日本が移り変わるときに、国を二分する大きな戦争が起きました。戊
辰戦争といい、会津がもっとも悲惨な戦場となってたくさんの悲しい血が流されまし
た。
村々では盛んに軍夫の徴発が行なわれ、村ごとに割り当てが出されました。佐代助は
敵側の軍夫として略奪や暴行を手伝わされました。佐代助は生まれて初めて血生臭い
戦闘を見ます。いえそれにまして心を傷つけたのは人間業とは思えぬ悪逆蛮行の数々
でした。かりにも昨日まで同じ国の領民であった人々の受難、それを目のあたりにし、
しかしそれに対し何も出来ない無念。佐代助の心はすさみ、手にした人夫賃は博打場
に消え、酒を見つけると浴びるように飲みました。酔えば陽気で得意の歌や踊りをい
つまでも続けたといいます。人は本当に悲しいとき涙は内側に流れます。魂で泣いて
いるのです。佐代助の涙はまさしくそれでした。その真実を見ることはできないけれ
ど、佐代助の心は深い傷をおい、その魂で泣いていたのです・・。

英世の語学力は天才的です。語学に異様な関心を示し、単なる勉強好きというレベル
ではありません。ここでも佐代助の物語が理解を深めてくれます。

佐代助は猪苗代町小平潟の生まれです。あの天満宮のある湖畔の村です。今はさびれ
ていますが江戸時代までは日本三大天満宮の一つとして広く参拝者を集めていまし
た。
天満宮は学問の神様として菅原道真公を祭った神社ですから、それだけでも話として
はいいようですが、英世の語学の天性を知るためには猪苗代兼載(ケンサイ)のこと
を想う必要があります。兼載は室町時代の人で猪苗代氏の子として猪苗代湖畔で生ま
れました。学才に優れ天満宮の申し子とうわさされるほどでした。16才で京に出て連
歌を学び、やがて宗祇と並び称されるようになります。共同して新撰つくば集を完成
しますが、連名でなく名を残しませんでした。晩年会津へ帰り、庶民の間に連歌を広
めました。佐代助の実家はその一族から出ています。連歌とは和歌の下句と上の句を
読み合ってつなげていく即興の歌会で機知と文才が試されます。戦前まで会津の農家
では普通に開催されていました。農民が野良仕事の後に集まって歌を詠み合うので
す。
英世のユーモアのセンスと追い詰められた時の柔軟な思考は間違いなく父譲りです・
・・人の生き方の物語は道徳を超えています。消ゴムでいくら消しても残っている鉛
筆の後のようなもの。佐代助も英世にとって鉛筆のあとです。見えないけれどなぞる
ことができます。

私たち一人一人には、私たちを生んでくれた父と母がいます。どこにどんな状況で
いても、あるいはもう亡くなってしまっているとしても、そのつながりは決して消せ
ない。どんなに否定したとしても、父と母の影響をうけて今の私は存在しているのだ
から。

他者への尊厳と愛。忘れてはならない大切なことだけれど、何よりも自身の両親への
愛と尊厳を、決して忘れたくない。

野口英世を語る際に、いつもその母の存在は語られても父のことはあまり語られな
い、もしくは否定されがちだった、それが私には心痛まれた。

この人なくしては、英世も存在し得なかった、それをもう一度わかりあいたい。

英世は苦しみを、痛みを、そして母の深い愛を、父の繊細な感受性と才能を、人々の
やさしさを、ふるさとの人々の期待を、不可能と思える状況の中にある一筋の光と可
能性、想像の力を、その身にしっかりと受け止めていたからこそ、世界の人々の痛み
を自分の痛みとして感じることができたのでしょう。魂の奥からの深い共感こそ、人
類の為に生きた、行動する医者、野口英世を生んだ。

私たちはただ彼の伝記に学ぶのでなく、想像の力をめいっぱいに働かせて、何でもい
いから共感できるものをうけとってほしい。

そしてそれが、一人一人の人生を照らす一条の光たりえたら、彼の魂もきっと嬉しい
だろうし、私もここに来てよかったと思えましょう。