ペルー日記(2001年2月)

2月2日

皆様、お変わりまりませんか?
ペルーへ来て3日目。ホストファミリーのみんなと、実和さんたちと、1泊でナスカ
へドライブ旅行に連れて行ってもらいました。
長い車中では、実和さんの色々な話を聞かせてもらいました。
やはり最初は何を言っているかわからず、早く言葉を覚えなくてはと、焦りとジレン
マにだいぶ苦労したみたいで、でも、今は本当に頼もしく、色々とアドバイスもも
らったりしています。
彼女は7日に帰国します。帰ったら温泉に入りたい!と言っています。。
とにかくみんな、とてもよくして下さっています。

2月3日

日本で誰かが心をこめて送り出してくれた夕日が、朝日となって、この地を包む。焼
け付く太陽は,今日も体力を奪い、ひとつ行動を起こしては,ベッドに倒れこむような
有り様。
ペルーに着いて,1週間。たくさんの人々に会った。実和さんのおかげだ。彼女の2
年の苦労と努力、そして作り上げたすばらしい軌跡を思うと,頭が下がる。学園から
市内まではバスで約1時間。その道のりを、コンビやモトタクシーを乗り継いで,友
達に会いに出掛ける姿はとても,頼もしい。彼女のために集まる友人たちの,笑いさざ
めく,楽しい時間。この家に戻ってきて,彼女のいない食卓のわずかなさびしさ。これ
から、彼女なしの生活が始まるのかと思うと、目の前が少し暗くなる。でも、彼女が
残してくれたたくさんの交友関係に、きっと救われることだろう。ありがたい。

2月4日

この日はペルーには珍しい雨だった。日本の森が恋しい。

2月5日

日秘文化会館へ赴任のあいさつに出かける。
(以下メールより)
昨夜は日秘文化会館を訪れ、ペルー日本人協会の会長、書記長、組織部長といった
方々に、両国の国旗を背に、皇族の写真を横に、会見しまして、その後、協会の日本
語普及部アドバイザーの先生と、ペルー日系婦人会の女性と一緒に、夕食をごちそう
になりました。
「ボランティアという崇高なな精神でいらっしゃってくださって,心より感謝いたし
ます。ぜひペルーと日本の掛け橋となってください」といった、ご挨拶を会長からう
けました。
 会館では沖縄の踊りや絵画など,色々な教室が開かれていて、こちらへ通う機会は
これから多くなりそうです。
 ただ、こちらの日系社会というのは、以外に閉ざされているような話も聴きます。
 枠にはまらず、色々な立場で生きてらっしゃる方を理解できるようになりたいと思
います。
 

2月7日

ただいま時刻は午前1時50分。リマ空港で実和さんを送り出して,帰ってきたとこ
ろです。今まさに、彼女を乗せた飛行機が飛び立とうとしてるはず。
24時間フルに動き回っていた10日間でした,彼女にとって。たくさんの方々に見
送られ、旅立ちました。また,新たな道へ。
空港へはペルーの友人や日本の友人など30名くらい,集まり、最後まで大笑いして
いました。
そして、ゲートに向かう最後の最後に,初めて、彼女は涙を見せました。大きな声で
泣き出した彼女をみんな、笑顔で抱きしめてました。
本当に,彼女はすごいです。がんばりました。
そして、たくさんの素晴らしい人間関係を築き上げました。ペルーの人も日本の人も
,隔てなく,彼女の素晴らしい友人です。
孤軍奮闘の1年間、どうやったら生徒たちに興味を持ってもらえるか、工夫をこら
し、授業を考案し、言葉もわからない状況の中で。
そして2年目、子供たちと一緒に覚えた言葉を駆使して、ペルー中,旅行し、たくさ
ん友人に出会い、みんなに愛され、今の彼女はとても頼もしく、インカの太陽神のよ
うに,輝いています。
帰ってから,彼女はまた、一生懸命にがんばることと思います。彼女らしい道を歩み
始めるために、新たに、大きな夢に向かって。
今初めて、こちらに来て私も本当に始まった気がしました。今までは、彼女について
歩いてたから、不安もなかったし、たくさんの出会いにただ感心していられました。
これからは、私もがんばらなくてはなりませんね。
今は本当に,何の力もありません。友人に会いに市内へバスに乗って出かけることす
ら、できません。
明日からスペイン語の猛特訓です。
私まで泣きそうになって,見上げた空に、きれいな月が出てました。明日は満月です
ね。

2月9日

今日は午後、日秘会館にある日本人移住資料館を校長先生と訪れました。
1899年に移住者たちを乗せた船がペルーの港に着いてから、もう、二つ目の世紀
になるのですね。
最初の10年間の統計では、福島からの移住者は277名となっていました。一番多
いのはどこだったと思いますか?驚いたことに、熊本の1414名なんですよ。そし
て次に広島の1239名。校長先生の出身である沖縄は354名でした。
苦しい開拓時代、世界大戦の中の,反日感情、それらを乗り越えて、今は日系人社会
がペルーの社会の中でも,大きく、成功を遂げています。それはペルーへの同化の歴
史であり、その反面、自分たちの文化やコミュニティを守ろうとした歴史でもあった
のだと思いました。
 その会館で、ノグチ学園の名づけ親である方に会いました。70歳くらいかと思い
ますが、文部大臣の顧問役をつとめている2世の方で、ずっと記者をしていたそうで
す。
この学園は、直接は野口英世に関係ないかもしれませんが、でも志を継いで,名前
をつけた歴史と、その学園名によって、私がこの地に来れた縁を思えば、見えないつ
ながりも見えてくる気がしました。
 最初に抱いた「猪苗代の文化や歴史を伝えたい」という思いは、ここでかなえるこ
とは直接は難しいかなと、思ったりもしました。でも、それでも、ノグチという縁が
私とこの学園を、そしてペルーと日本の子供たちを結んでいるのですから、何らかの
形で、想いを少しでも形にできたらと、今また思うようになりました。
他の日系の学校の3倍くらい、年中行事があり、その準備でけっこう時間がとられ
てしまうこと、それと進学を考える子供たちにとっては、日本語の授業はそんなに重
要視されないこと、そのため授業は、先に進むことよりも,楽しんでもらうことに、
力を注ぎがちなようです。
 ですから、私のつたない語学力で猪苗代を伝えよう・・というのは、最初からは無
理な話ですが、ここを私が卒業する頃には、多少は、実現できてたらいいですね。
 スペイン語,折り紙、アンデスの自然、移住者たちの歴史・・知りたいことは山の
ようにあり、歩みは亀より遅々として、さっき聞いた単語も右から左へ抜けてしまう
始末です。
 でも、母の持たせてくれた一枝のカネのなる木といっしょに、あせらず、しっかり
自分のいる場所を見つめていきたいです。








                                           

2月13日〜ペルーの天野博物館

リマ市内にある天野博物館へ。珍しく人が多かったようで、ゆっくり見ていることは
できなかったのが残念だったが、また訪れたい場所だ。
約1時間の館内見学の中で、ざっとペルーの歴史を聞く。
案内してくれた光炎さんは、京都出身の陶芸家。こちらに来てまだ半年。やはりボラ
ンティアでガイドをしながら焼き物の勉強をしている。

2月16日〜ペルー新報一面掲載

暑い毎日が続いております。
そちらでは立春を迎えたとはいえ、まだまだ寒い日が続いていることと思います。
春を待つ気持ちが、懐かしく偲ばれます。梅の香りを思いきりかいでみたいです。
早いもので、半月過ぎ、こちらでの生活にはずいぶん慣れてきました。と言っても、
言葉はまだまだ上達していませんが。
3月13日から新学期が始まります。それまでのんびりと、スペイン語を勉強した
り、人と会ったりしています。

先日、こちらの日系の人たちが主に読んでいるペルー新報にトップで、赴任の記事が
載りました。
ちょっと日本では考えられない扱いで、自分でびっくりしています。ペルー人の記者
の方には「ラテンアメリカの歴史はどれくらい学んだのか」とか「ペルーの学生たち
に言いたいことは」など、突っ込んだ質問を受け、少したじろいでしまいました。
インカ帝国や古い人類の歩みに興味があったと言っても、知識はあってないようなも
ので、学ぶべきことはたくさんあるなと実感しました。

今の自分がありのままにとらえたペルーでの日々を、日記につけるようにしていま
す。他愛ない文章ですが、こちらでの生活が伝わるかと思い、添付しました。お時間
のある時にでも、よかったら読まれてみてください。
何もかもに目を見張っていた最初の10日間、少し慣れると同時にさびしさにおそわ
れる時もありますが、子供たちに出会うまで、少しでもスペイン語を上達させておき
たいものです。
ペルー新報に掲載された写真は、教室で撮ったものです。
こんなに元気です。。

2月20日〜チクラーヨへ

夜8時30分発の長距離バス・コレクティーボで、リマから780KMほど北のチク
ラーヨへ。アケミさんと友人の家族と、ネイディの友達トニーたち、7人での小旅
行。ずっと腰を痛めているアケミさんが整骨にかかるのが目的。
約12時間のバスの旅。揺られながら旅していたのは空間ではなく、時間だった。
様々な想いが押し寄せてきて、流れる涙を扱いかねてたバスの夜。


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