ペルー日記(2002年6月)

6月9日

今日は日秘文化会館に隣接した教会で、ミサを行いました。

巡礼のビルヘンの絵を奉納するためのミサ。

この絵はちょっと変わったマリア像で、何と黒髪に和服姿で赤ちゃんを抱いているの
です。どちらも顔の周りに光の輪が描かれていて、日本の家屋と庭という背景でまる
で、かぐや姫を抱いているかのようです。目を細めて穏やかに赤子を見つめていま
す。

この絵が各学校をまわり、野口英世学園には1週間前にやってきて、奉られていまし
た。そして今日、お神輿に乗せ、音楽を奏でながら、花のじゅうたんの上を歩き、教
会に納められました。次は別の学校へ行くことになっています。

少年達のギターと歌の進行で進められたミサ。折々に子供達の聖句の発表があった
り、神父さんの熱弁がふるわれたり、贈り物が捧げられたり、約1時間半ほど、たっ
ぷりかかりました。有難いお話もほとんど理解できずに、神父さんの後ろの、タイル
をはりつめたマリアの壁画や、壁にかけられた様々な場面のキリスト像など、見てば
かりいました。ゴスペルのようなリズム感のあるミサ曲には、手拍子をとりながら、
生きいきと歌い上げる生徒達の横顔を見ていました。

何かのお祈りの後に、「平安あれ」といった感じで周囲の人たちと抱き合うシーン
が、一番好きでした。隣人から、全ての人を赦しあう瞬間。声をそろえて唱えられる
祈りの言葉。こうして心を寄せてみんなで祈りあい、赦しあったなら、きっと世界は
いい方へと向かっていく。そう信じたい瞬間でした。

ちなみにこの黒髪のマリア、子供達に「センセイフミコ」と呼ばれていました。。

6月17日

野口学園での日々も残すところ後半年。。

早いものです。今はホームシックというよりも、ここを去るのが何だかさびしい気持
ちです。

そんな私の気持ちを見透かしてか、会津の師と仰ぐ方に最近言われてしまいました。
「あなたは任期が終わったら、きっぱりとペルーを去り、帰るべき所へ帰りましょ
う。それが最後の仕事だと思います。」

今、会津の「ドクターノグチを語り継ぐ会(代表・照島氏)」では後任のボランティ
アの募集を行っていますが、まだ次の方に巡りあわずにいます。

正直、私は後任が来なくてもいいのではないかという気持ちになりつつあります。も
ちろん、後続を望む気持ちはありますし、志を同じくする方がいたなら、こんなに嬉
しいことはないけれど、見つからなければそれで、この会の役目はひとまず果たされ
たと見るべきではないかと。

日本、それも校名に名を冠した野口英世博士の故郷から、二人もの人間がやってき
た。四年間、試行錯誤ながら、何かを子供達の心に、この地に残していった、それで
いいのではないかと思うようになったきたのです。

前任の実和さんは、開拓者として、困難な道をバイタリティで見事に切り開き、元気
な笑顔をみんなの心の中に今も残しています。そして、今私に残された時間は、博士
を生み育んだ風土というものを背景に、いかに生きようとしたのかを見つめなおし、
先人から共に学び、そこにこれからの指標となるものを共に見出すことに、かけたい
と思っています。

実は今、ある構想が進んでいます。会津で一つの物語が書き進められているのです。
野口英世について書かれた本はたくさんあるけれど、彼を生んだ会津の風土性を踏ま
えながら、その精神性と彼を歩ませつづけた志とは何だったのか、彼の真価はどこに
見出されるべきなのか、彼の人生はあまりに偉大で私達とはかけ離れているものなの
か・・今一度足りなかった部分に光を投げかけるべく、書き進められているその物語
を、私の言葉でスペイン語に訳し、子供たちに語りかけるという、最後の使命です。

簡単ではないその内容に、途方もない海に漕ぎ出すような気持ちを覚えないといえば
嘘になります。でも、伝えたいことを伝えたい。心揺さぶるものがあれば、それはそ
の人の人生にきっと何かの意味を持つ、ずっとそんな気持ちで走ってきた自分があり
ます。だから、今、私の心を揺さぶりこの地に導いた魂、会津で出会った全てへの感
謝と責任をこめて、物語の訳を、語りかけを始めなくてはならないと思っています。

6月22日

今日は父の日のイベントがありました。

子供達のお父さん、お母さんも集まっての大きなイベントです。

開始の時間を30分くらいすぎた頃から、ぼちぼち人が集まりだすのはペルー流?生
徒達のみならず先生もしかり。

小学生の子による、詩の発表、歌、踊りとプログラムは進みます。

私の担当は、沖縄の小学校から寄贈していただいたピアニカの演奏。小学5,6年生
たちの子が歌とピアニカで、「ドレミの歌」と「上を向いて歩こう」をピアノの伴奏
で演奏しました。

日本の小学校と異なり、ペルーではピアニカが珍しいようで、なかなかの演奏に「私
もピアニカを覚えたい」と小さい子達にも喜ばれました。

また、放課後にピアノを教えている中学生女子も、「エリーゼのために」をピアニカ
で演奏しました。

みんな、素晴らしい演奏で「すごく上手だったよ」と演奏の後に拍手を送ったら「セ
ンセイ、ピアノを教えてくれてありがとう」と生徒に言われ、ほろっと。。

小さい頃からピアノを弾くのが大好きで、ピアノの先生になるのが、その頃の私の夢
でした。ペルーに来てからも、放課後一人でピアノを弾いていた私の元に、何人かの
生徒達が「ピアノを教えて欲しい」と集まるようになりました。

夢が思いもかけない形で実現したようです。

最後は父兄と先生対抗のバレーボールとサッカーの試合に、暗くなるまで興じていま
した。

母は強し。私も駆り出されたバレーボールは、ママさんチームの熱気にかなわず先生
チームは敗退。

また、毎回イベントのあるたびに1ソル(35円くらい)で販売されるくじびき。メ
インのコーヒーメーカーを当てたのは6年生の男の子でした。

歓声をあげて駆け出した彼、見事、親孝行しました。

6月23日

今日は日秘文化会館で福島県人会の「父の日・母の日おめでとう」パーティに子供達
と一緒にお招きをうけました。

約50人くらいの出席者でしたが、若い方の姿は数えるほど、大半は高齢のおじい
ちゃん、おばあちゃんたちです。

最初の移民が日本からペルーにやってきて103年。福島県からの移住者達が1ヶ月
かけて横浜からリマのカヤオ港にたどりついてからの歴史は約95年。今はもう3
世、4世たちが活躍しています。

私が住んでいるチャクラ・セロも以前は日系人の沢山住んでいるコロニーだったそう
です。綿花の栽培や酪農が主だったようですが、今はだいぶこの辺りに住む日系人も
減りました。もっと便利で開けた市街地の方へ移っていったり。でも、ペルー人はあ
まり好まない、日本の大根やきゅうりも近くで作られていて、日曜日にはリヤカーを
ひいたおじいさんが、手巻きすしや豆腐などと一緒に売りに来てくれます。

福島県人会では父のようにお世話になっている添田さん。もう70歳を超えています
が、若いときから水泳で鍛えていらして、穏やかな笑みでいつも娘のように迎えてく
ださいます。同じ中央大学の出身で、高校は父と同じ白河高校。

また、二本松出身と聞いて懐かしくなってと話し掛けてくださったツルヨさんは88
歳。涙をうかべながら安達が原から二本松市内の女学校へ1時間弱の道のりを歩いて
通った少女時代のことなど、語ってくださいました。4年前に寝たきりだった旦那さ
んを亡くされて、あの時はどんなにか岳温泉に連れて行ってやりたかったかしれない
と、今はもう自分も足が悪く日本へ行くのは難しいなぁ・・・と、福島弁まじりでの
語らいに、移住して70年になるという月日の重さを感じずにはいられませんでし
た。

子供達は得意のフォルクローレを踊ったり、ピアニカで「ドレミのうた」や「上を向
いて歩こう」を披露しました。このピアニカは沖縄の具志川市立中原小学校の皆さん
から寄贈いただいたもので、みんなとても気に入って、意欲的に練習に励んでいま
す。男の子も、私がピアノで弾いた「エリーゼのために」や「タイタニック」を覚え
たがって、本番の練習そっちのけで、それらを教えてくれとせがまれました。

県人会には図書館へ本を寄贈いただいたり、県知事もいらしたことがあって、学園で
はとてもお世話になっています。97年には川俣町で開催される「コスキン・エン・
ハポン」というフォルクローレの祭典に子供達が参加したことも。「ドクターノグチ
を語り継ぐ会」代表の照島さんとの出会いから、ボランティアを派遣してもらうよう
になったいきさつ、果てには私の幸運、ペルー大使館に勤務していた彼との出会いか
ら結婚のいきさつまで事細かに、校長先生が熱弁をふるってくださって、最後はすっ
かり「セニョーラ・フミチャン」と呼ばれることに。ちなみにペルーでは結婚しても
姓はかわらず、通常子供は両方の姓を名乗ります。名前も2つから3つくらい持つの
が普通で、慣れない内は何と呼んでいいのか戸惑ったりしていました。

私の場合はフミコ・ハシモト・デ・カタヤマとなります。


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