ペルー・南米 旅日記


1.悠久のナスカと砂漠の果ての青い海

(2001年1月31日〜2月1日)
ペルーへ来て3日目。ホストファミリーのみんなと、1泊でナスカへドライブ旅行に
連れて行ってもらいました。

リマから海岸線を南へ約250km、パンアメリカン・ハイウェイをひた走り、太平
洋に突き出したパラカス半島の付け根から船に乗り、リトル・ガラパゴスと呼ばれる
バジェスタ島へのアシカクルーズ。波に削られた岩場に埋め尽くすように群がるアシ
カ、海鳥、フンボルトペンギン。むせ返るような匂いと、鳴き声。。そしてパラカス
の紺碧の海。

地球上で、自分の立っている場所がここだと、指し示せそうな、地の果ての、海。渇
いた赤褐色の砂漠が終わるところに、永遠の青い海が現れるのです。日本では見られ
ない景色に、圧倒されて立ち尽くしました。

やけつく太陽と渇いた風に体力をうばわれ、車の中では眠り続けていましたが、目覚
めると砂漠に沈む真っ赤な夕焼け。。そこはナスカでした。
オアシスのような中庭のある、こじんまりしたコロニアル風のホテルに休み、ハン
モックに揺られ、リマでは見られない星を眺めていました。夕食に出た町のレストラ
ンでは、フォルクローレの生演奏。お決まりのコンドルは飛んでいくも、一人一役で
は終わらないアンデスの楽師たちの、風を響かせるような力強いリズムに、何だか熱 い気持ちがわき上がりました。

そして翌朝はセスナでの地上絵遊覧。約40分くらいでしたが、渇いた大地に刻まれ
たその絵を認識するのは、以外に簡単でなく、そこだよ!と指し示されて少ししてか
ら、うわーっと感動するような調子でした。
それにしても、誰が何のために・・という共通の感慨はさることながら、生涯をその
研究に捧げ、熱さ寒さも厭わず測量を続け、保存の重要さを訴えつづけたマリア・ラ
イへ女史の業績には、頭が下がる思いでした。

2.砂漠の中のオアシスの町 チクラーヨ

夜8時30分発の長距離バス・コレクティーボで、リマから780KMほど北のチク
ラーヨへ、3泊4日の小旅行。
約12時間のバスの旅。

・・朝7時半、チクラーヨに着いた。人口48万人、リマに似て大きな町だが路地に
趣があり、行き交うモトタクシーにもどこか風情がある。

かつてプレインカ時代に、北を代表するモチェ文化の栄えたこの町は、シパン・シカ
ン遺跡のピラミッドと黄金の埋蔵物で知られている。

 

モチェ文化の遺跡といわれる、トゥクメ遺跡をまず訪れた。

乾いた大地に点在する、禿山のようなピラミッド。大小28のそのピラミッドは、ま
だ発掘調査中で、入口に博物館があり、そこで発掘された品を見ることができる。

 

じりじりと照りつける陽射しの中、息を切らして丘のようなピラミッドに上ると、
360度に近い地平線が丸い。

吹く風が気持ちよかった。久々にリマの喧騒から離れ、車の音の聞こえない青空の
下、ペルーに来て初めて、心からの深呼吸をした。

茶色い大地の起伏を取り囲む、緑の田畑。その向こうにはまた、茶色い岩肌の山々。
木々の緑が鮮やかに目に染み、田を渡る風が心にしみいった。

シパン遺跡を訪れると、埋蔵されていた様子を復元したミイラは、数々の財宝と従臣
たちと共に、ピラミッドの入口に露わにされていた。

シパンは700〜1300年頃の遺跡で、この地域を広く支配していた最後の王の名
をとっているそうだ。

深い穴の底に並ぶミイラたちは、南に頭、北に足を向け、たくさんの埋蔵品、従者た
ちと共に手厚く葬られていたのが偲ばれた。今はこうして、あばかれ風にさらされて
いる。足を切られて寄り添うミイラ。たくさの土器。すべてに意味があったのだろ
う。

ランバイエケのブルーニン博物館には、シパン遺跡から発掘された黄金や遺品,土
器,織物などが展示されている。トルコ石と黄金からなる宝飾品や黄金のマスクに
は、文字通り目がくらむほどだった。インカをしのぶ黄金文明として名を馳せたのも
うなずけた。土器には様々な表情の人物が描かれ、喜怒哀楽がユニークに表現されて
いる。

3.天空の城跡 チャビン・デ・ワンタル〜ワラス紀行

4月12日〜15日、セマナ・サンタというキリスト教の祝日を利用し、400km
ほど北のワラスというアンデスの町へ旅行しました。
すばらしかったです。
アンデス山脈を越えて白い山々が続く広大な風景は、アラスカのデナリ国立公園で見
た光景を髣髴させました。

アンデスの白い山々を望み、山間の湖を越え、渓谷沿いに曲がりくねった道をバスは
どんどん進みます。標高3000m〜5000mの間を行くため、高山病防止にコカ
茶を飲み、乾燥梅干を食べていました。

プレインカ最古の、3000年前の神殿「チャビン・デ・ワンタル」に佇むと、天空
の城ラピュタのようでもあり、何かしらない懐かしさに心打たれました。
土壁の家々、今も昔とかわらないアンデスの山の民たちの暮らし。山の頂上付近まで
連なる、緑の田。石垣で区切られた菜の花畑、風にゆれる麦の穂。草を食むリャマや
アルパカの群れ。黒い髪と茶色い瞳の人々。過剰な文明から離れ、山と緑と水の恵み
を受け、神々の降り立った地に生きる、その営み。
ごつごつと迫る岩肌を、しぶきをあげて迸る雪解け水。その恩寵のような水は谷間を
潤し、人々の生活を許します。あふれでる流れは道をも流し、川を越え、バスはまた山
道を進みます。

田畑の周りを取り囲む石垣は、はるかな古から、代々、役立てられて、そこにあるの
かもしれない。

今はもう住む人の気配の無い、山の合間にもその石垣だけは残っています。あるいは
季節移動で、どこかへ行っているのでしょうか。

それぞれの家の前に佇み、遊び、通り過ぎるバスに手を振る、泥にまみれた子供た
ち。時折見せる笑い顔。

これが彼らの築いてきた暮らし。

何を持って不足としよう。

そして明確な意思を持って、ここに築き上げられた古代都市、その文明。祈りを捧げ
た神殿。その気配は今もなお強く、心を揺さぶりました。

想像していた山の暮らしの厳しさよりも、豊かな穏やかさすら感じたのです。天然の
城砦、水の恵み、山の恵み、石の神様。

神殿の内側は縦横に通路がめぐらされ、石の通路の行き当たるところに、シーザーの
ような石像が置かれています。

それぞれの暮らしが、祈りが、今も遥かな時にもまた、ここにある。

背中にいっぱい草や葉を背負って、山道を駆けてくる子供たち。

ここに来てよかったと、心から思いました。

旅人としてではなく、初めて、生活するものとして異国の地に住み、時間を与えら
れ、こうして旅をしている。でもここは生まれた場所とは遠い異国でありながら、心
のふるさとの面影を強く感じます。

山、木々、川、田畑、花、ほとばしる水、荘厳な山々。

モンゴロイドのたどった旅路。

この道はいつか来た道。そしていつか、また歩む道。

4.SATIPO(サティポ)〜ちょっぴりセルバ体験。

2002年8月29日
リマを夜出発したバスは、夜中、4800mの峠越えをむかえた。息苦しさに
目を覚ました私はめまいと腹痛、寒さと逃げ場のない高山病の苦しみに、(救
急用酸素ボンベ(バスの後ろの方に積み込まれてた)までたどりつけるだろう
か・・)と、満点の星空の輝きも虚ろに朦朧としているうち、気を失っていっ
た。

8月30日
朝8時半。3000m位まで下ったらしく意識が回復。生きている幸せ。酸素
のある喜び。。山合いに細長く続く村を通り過ぎる。
山すその段々畑を牛をひいて耕す朝の風景。草を食む羊の背中。紅梅に似た濃
いピンク色の花をつけた木々や、白いリンゴの花に似た木々が、田んぼの合間
や軒先を彩り、小道に沿って小川が流れる。山肌のサボテンや巨大アロエを除
けば、懐かしいふるさとの風景にあまりに似ている。
花を背負って歩くおばあちゃん。メルカート(市場)に行く途中だろうか。ア
ンデスの衣装のおばあちゃんたちが思い思いに道端にゴザを広げ、花や野菜を
並べている。小さい子達も草取りにかりだされてる。
観光客は珍しいのだろうか。道行く人々がみんな、顔をあげて興味津々と言っ
た感じでバスを見送ってくれる。

夜中はでこぼこ道を走っていたけれど、今見ていると、3000mの標高にも
関わらず、道路は完全に舗装されている。あとで現地の人に聞いた話によると、
フジモリ前大統領の残した仕事らしく、彼のおかげでテロもおさまったと話し
ていた。そう、かつてこの辺はテロの根拠地として有名だったのだ。観光客が
こうして訪れるようになれたのも、最近のことのよう。

3000mの高地から一気に下りに入る。眺めは壮観だった。切り立った岩肌
を流れ落ちる滝。北海道の層雲峡を彷彿する。・・・なんて乙に入って風景を
楽しんでいると、突然バスが止まった。落石だった。目の前に土砂がたまって
いる。どうも砂利がバスを直撃したらしい。しばらくトンカンしていたが、じ
きに何とか進みだした。100mほど走ったカーブで何気なく窓の外を見下ろ
すと、小型バスが落ちていた。道理で曲がり角に花と小さな石碑があったわけ
だ。

だいぶ下のほうまで降りてきた辺りで、小さいながらダムや水力発電の施設を
見た。雨季と乾季で極端に変わる水量を調節し、周辺の村に電気を供給してい
るのだろう。道路の整備状態や橋桁も立派なものだった。
フジモリ前大統領はリマにとどまることなく、常に自らの足でセルバや山間地
を歩き視察を重ねていたと聞く。ここに彼の業績を垣間見る思いだった。

トンネルをくぐるごとに風景が変わる。川沿いにはバナナの大きな葉が見られ
るようになり、木々にはツタが長くのびからまっている。緑の色も濃くなって
きた。日本の山間地のような風景に変わり、ジャングルの趣が強くなってきた。
広葉樹や低木が目立ち、道沿いで売られるている果物もバナナが主に。一枚ず
つ上着を脱いでいく。ふと思う、これがペルーの魅力なんだろうな。ちょっと
の距離、高度を稼いだだけで、風景も人々の生活の様子もがらっと変わる。

そして、みんな自分のふるさと(出身地)にとても誇りを持っている。自然、
文化、食べ物。。学園の先生方もよく、自分の町へ遊びにおいでと言ってくれ
る。
その愛国心の強さが時に、裏目となってあらわれるのが、テロや大規模な抗議
活動なのかもしれない。
「Trabajo y Desarrollo」スタンドの壁にペンキで書かれた言葉。労働と発展を。
ペルーではよく壁に大統領の名や色んな標語みたいのがペンキ書きされている。
それは、よりよい自分たちの生活、よりよいペルーを望む叫びなのだろうか。

昼近くになり、ようやくサティポ着。暑い。アルマス広場を中心に、レストラ
ンやお店がぐるっと周りを取り囲んでいる、こじんまりした町。コーヒー工場
の看板が目立つ。
昼食後、近郊のマニュアル・ヒガ・アラカキ記念病院を訪れる。33歳の若さ
で亡くなった、日系人の医師の名を冠した病院に、旅行団の医師グループから
治療器具や扇風機などの贈り物が渡された。
彼は貧しい人からは決してお金をとらなかったと、病院の方がアラカキ氏の思
い出を語り、集まった病院の人たちも一心に聞いていた。近くの共同墓地に三
角形の墓碑が立ち、彼もまた眠っている。このような奥地にも、日本人の流れ
があるのだ。
お線香代わりに、煙草が墓前に捧げられた。

夕食は各自、自由に町へ繰り出した。セルバの味をということで、白身のおい
しい、大きな河魚「doncella(ドンセージャ)」のフライや、venado(鹿)のス
テーキ、様々な熱帯でとれるフルーツのミックスジュースなどを、みんなでつ
つきあった。ユカという形はとろろ芋に似たサトイモの長くなったような、お
いしい根菜があるのだけれど、セルバで食べたユカはひとまわり大きく、サク
ッと揚げてあり、非常においしかった。

8月31日
朝食に指定された、近くの通りのレストランへ指定時刻に行くと、すでにメン
バーで座席はびっしり。総勢80数名に対しこちらは3名できりもりしてるか
ら、お店の人はたいへん。パパイアの皮をむいたりオレンジをしぼって、ジュ
ースを作るのもセルフサービス。コップがたりなくて洗うのも我々。コーヒー
まで自分で濾して、簡単なサンドイッチの食事を済ませた。なるほど、ガイド
さんが私たちを指して「こんなに大量の猫(!?)がいっぺんにこの街にやっ
てきたのは初めて」と評する訳で、まだまだ観光客なれしていないところが、
逆に好ましかった。

 

まず、近くの山の中腹にあるとオレンジ畑を目指して、信じられないような山
道をマイクロバスはよたよたと上り出した。村の人たちが「おい、見ろよ!」
といった感じで、我々のバスを興味深げに、半ば唖然と見送っている。
車輪のはみ出しそうな細い林道をバスは進んでいく。
突然の激しいスコールも、車体が沈みそうな水溜りも何のその。

そしてたどり着いた、一面のオレンジ畑。何とこの新鮮なオレンジが100個
で3ソル(110円くらい)。どちらかと言うと、ジュース用かな。その場で
もぎ取って味見・・ジューシーでおいしかったです。こんなに安くていいの?

Mazamari
次に訪れたのが、マサマリという村にある、スペイン人の神父さんが運営する
施設、Albergue Beato del nino。サティポよりさらに奥地へ23km。
200人の親のない子供たちと、400人以上の近村の子供たちを集めて、幅
広い教育を行っている。親のない子供たちの大半はテロで失ったのだそうだ。
学校の正面にも、地雷が埋めてあったそうで、そのときの傷跡を残すジープが
そのままモニュメントのように置かれてあった。

ここでは、年齢による卒業制度はなく、手に職をつけるまで滞在でき、ミシン
による裁縫だとか、生きるための技術を子供たちは覚えている。スペイン語を
知らない子供たちも中にはおり、スペイン語を教えながら、3ヶ月に一度は村
に帰省させ、自分たちの言葉・文化を忘れないように配慮しているそうだ。
近代的で落ち着いた、木のデザインの美しい、大きな施設で、このような山間
地にとびっくりさせられる。建築家でもある神父さん自らの設計だそうだ。内
部には病院や教会、先生のための宿舎も建設中で、特にこの辺りではマラリア
の保持率が高く、リマから医大の先生たちを招く予定だとも。

神父さんの話によると、この施設の維持には月に5000ドルが必要。しかし
ペルー政府からの援助は、今までもこれからも見込みはなく、ヨーロッパ諸国
やアメリカ・カナダからの寄付で今までの建築はまかなわれたそうだ。しかし
これからどうするのか?「・・神様が見ていてくれる」陽気で人懐こそうな神
父さんが笑ってみせた。彼はこの地に根をおろして23年。ここまで作り上げ
るのに3年かかったと。ツアー参加者全員からも寄付がおかれた。

Nativa de Tsiriari
車窓に続くバナナ畑、チリアリ谷に残る先住民の村を訪れる。
2年前の大雨の際に土砂崩れで流され、復興したばかりの村。約50世帯、人
口は200人くらい。村の入口には小さなコレヒオ(学校)も見かけた。

茶色い、木で染めたワンピースのようなつなぎの服を一枚、まとっている。
この村のガイドであり先生でもある男性が、歓迎の挨拶と、指と口とで鳥や動
物の鳴き声を真似た、彼らの“うた”を披露してくれた。私たちに楽器はいら
ないんだ、と。

そして、女たちがユカを口でかんで、唾液とまぜて発酵させ作るという、セル
バ地方独特のお酒、“マサト”を振舞ってくれた。色は濃いピンク色で、イチ
ゴジュースか何かのようだが、これでアルコール度数はけっこう高いらしい。

ふと見ると、小さい子供たちもこのマサトを回し飲みしている。目が合うと、
いたずらが見つかったという顔で、あわてて口をおさえてみせた。
セルバなどでは、まだ結婚年齢がとても低い。14歳くらいで子供を持つのが
普通のよう。

どばっとやって来て、お菓子や贈り物を渡し、写真を撮り、帰っていく我々。
これもエコツーの一形態になるのかな。

Catarata Arco Iris
最後にメインのアルコ・イリス(虹の)滝までトレッキング。
この名の由来は、夕暮れにその名の通り、虹がかかることからくるらしい。実
際私たちが訪れたのも、午後から夕方にかけてだった。あまり整備されていな
い山道(福島で言えば幕滝への道くらい)を、おじいさんなど年長者のペース
にあわせ、ゆっくり上る。道々には可憐な花も咲き、何より久々の山歩きと湿
りある緑のにおいに、私は一歩、一歩を、楽しみつつ進んだ。現地ガイドに
「セルバは前にも来たことがあるのか?」と問われ、なぜかと聞いたら「歩き
方が非常にしっかりしている」とほめられて、昔取った何とやら。

程なくたどり着いた滝は落差20mほど。滝壷で先に着いた子供たちが水浴び
している。鉄分を含んでいて肌にもいいと聞かされていたので、泳ぐつもりで
ここまで来たけれど、思ったよりひんやりした空気と、小さい滝壷に人が押し
合い写真をとっている間では、やめておくことにした。
一通り記念撮影もすんだころ、木々の間を抜けて、一瞬、夕暮れの閃光がさし
こんだ。確かに虹の輝きが、きらめいたかもしれない。でも、あまりに気まぐ
れな、束の間の光の演出だった。

Cena en el Restaurante Campestre Ivankoki Oveshiriaka
最後の夜。あっと驚く出来事が待ってます。お楽しみに。。
と、帰り道のバスの中で告げられた。夕食は郊外(というか田舎の)レストラ
ンらしい。現地語がまざったレストラン名とcampestre(野の、田園の)という
あたりから、とりあえず蚊の対策だけは必要と、むせるほど防虫スプレーを体
中に散布し、繰り出した。到着したらしくバスを降りると、灯りのない砂利道。
虫の声と、遠くから何やら太鼓のリズム。足元もあやうく進むにつれ炎の揺ら
めきが近づいてきた。セルバの衣装の男と女たちが、焚き火を囲み、踊ってい
る。サンポーニャ、ケーナ、そして太鼓をならしながらの、お迎えだった。
闇の中にはじける炎。スペイン語ではない、彼ら独自の言葉で歌と踊りが続く。
手をとられ、私たちもまた炎の周りへと踊りだした。

それからは、屋根と囲いだけの食堂に入り、ギターやカホン(椅子のような長
方形の太鼓)にあわせ、みんな銘々に歌ったり、踊ったり。クリオージャやア
ルゼンチンなどの甘い愛の歌(もちろんスペイン語)が続いた。
と、突然「センセイ、日本語の歌!」となぜか私にご指名が。
前に押し出され“上を向いて歩こう”や“乾杯”の大合唱に。
本当に陽気で、歌や踊りの大好きな皆さん。スペイン語の歌と日本語の歌と、
どちらも愛惜たっぷりに歌い上げている。踊りのリズムもさすが、ラテン。
セルバの熱い夜は終わることなく続くのだった。

9月1日
夕べは夕食後、みんなでディスコに繰り出した。ほんと、みなさん元気です。
未だに覚えられないサルサを懇切に教えてもらったけれど、これはもう、体に
しみこんだリズム感か、持って生まれた感性か・・私は半ばあきらめて気味。
でもこちらにいると、そうも言ってられない。ことあるごとに、とにかく踊る
のだ。老若男女問わず、腰・足の動きも摩訶不思議に。誕生日、結婚式、運動
会・・人の集まるところに踊りアリ。家庭でも当然のごとく、夫婦で踊ってい
るそうだ。やはりペルーに来たからにはサルサはマスターしたいもの。。

それはともかく、今回初めてツアー旅行に参加し、また、いつも日秘会館で挨
拶を交わすくらいだった方々と、共に過ごさせてもらえたのは、とてもいい経
験になった。色んなお話も聞かせてもらった。
たとえば、終戦後、身分のある男の人たちなど多くの日系人が北米に強制送還
された時のこと。取るものも取りあえず、何も持つことを許されずに貨車につ
めこまれ、北へと進んだ。当時は船に乗せるため、国境近くの北の町まで、陸
路で行かなければならなかった。裸同然で貨車につめこまれた彼らは、その目
に何を見ていただろう。
そしてトルヒーヨという国境手前の北の町に着いたとき、食堂を営んでいた日
系人の夫婦が彼らの姿を見た。旦那さんは強制送還の手を恐れ身をかくし、奥
さんは彼らのために、毅然と料理を始めたのだった。味噌汁にご飯。。そして、
彼らに食を供し、手ぬぐいや石けんを持たせてあげたという。
その人の名を忘れることはなかったのだろう。
今、各家庭に日系人としての歩み、歴史ありと、その聞き取り取材を通し、記
録を残そうと頑張ってらっしゃる方もある。
また、日系人としての問題点、ジレンマなどもあるのだと知る機会になった。
たとえば、出稼ぎのこと。どうしても今、ペルーには働き口が少ないため、日
本へ出稼ぎに出る方は多い。彼らが日本でやっていけるかどうかは、彼らがど
れだけ日本の流儀にあわせられるかによるとも。生まれた環境も違えば、育っ
た環境も違う。日本人のように見えても、我々はペルーで、この環境に適応し
ながら育ったのだ。作法も流儀も、味付けも違う。それを認識した上で、郷に
入らば郷に従わなくてはならないのだ、と。

一人一人に歴史のあるような、日系社会。
彼らは“ふるさと”と言い切れるものを、もてないのかも知れない。たとえば、
私がふるさとと言うとき、待っている母の顔があり、兄弟や友があり、慣れ親
しんだ風景がある。しかし、たとえば沖縄出身の日系人で、沖縄を本当に知っ
てる人がどれだけいるだろう。そして、そこに心底とけこめる人が。悲しかっ
たけれど、彼らには、帰るふるさとはもはやない、そういう人もあるのだ。日
系3世の友人と話しててそのことを知らされた。去年1年、出稼ぎに行ってい
た彼女は、どうしても日本の食事が合わなかったという。何を食べても甘い。
何事につけペルーが偲ばれた。彼女はもう日本へ行く気はしないようだ。
逆に、日本至上主義のように、慕うケースもままある。それも理解できること
だけれど、やはり生まれ育った環境は大きいと思う。彼らは充分に、私たち日
本しか知らない日本人にはないものを持っているし、今、充分に彼らはこの土
地の子であるとも思うし。ないものねだりでなく、今ここにあるものに、存在
価値を見出していけたらいいなと、思ったりする。
それにしても、私は改めて日系人の皆さんのファンになりました。