ダニエル・カリオン伝記


「ダニエル・カリオン伝記」 ドクター・カルロス・ランフランコ筆

1857年8月13日
サン・ミゲル・デ・チャウピマルカの中心(Capital de
San Miguel de Chaupimarca)、セロ・デ・パスコ地区クルス・ヴェルデ通り2番
(Calle Cruz Verde N.2)に生まれる。享年28才1ヶ月22日。
父はエクアドル、ロハLoja生まれの医師Dr. Baltazar Carrionバルタサル・カ
リオン。母はCerro de Pasco出身のDona Dolores Garcia Navarroドローレス・ガ
ルシア・ナバロ。継父(養父)はエクアドルのロハ出身の炭鉱夫Alejo
Valdivieso、住所はカリオンに同じ。弟二人Teodoro とMario Valdiviezo Garcia。
コチャルカスに養母(マドリーナ)の家。母のように慕い尊敬していた彼女の
住所と名前は知られていない。
   セロ・デ・パスコ、タルマ、ワンカイヨ、サンタ・イサベル校、リマではグ
ゥアダルーペ学園(Nuestra Senora de Guadalupe)で学ぶ。成績優秀(上級)。

1877―1879年:生物自然科学部

1880―1885年:サンフェルナンド大学医学部1〜6年生。
「カリオンにおける医学の道は、戦争の雰囲気(軍事的様相)の中に発展して
いった。ペルー国内では痛ましい戦争の進行に従い徐々に国を分裂させていた。
それらは大学での教育を受ける事の減損だけでなく、彼を虐げるものでもあっ
たのだが、数々の困難と障害にも関わらず、カリオンは侮辱に対して品位と威
厳、気高さを持って答える事を知った。」

1881年7月:初めての臨床記事をバルトネージョシスに関して書き進めな
がら、観察を開始する。(患者はアントニオ・サガメ32才)

1883−1885年:いくつかの記事を著す。“ペルーイボについての覚
書”など。次の病院の通い及び寄宿生であった。
 Maison de Sante, Santa Ana, San Bartolome, Lazareto, Dos de Mayo

1883年:カリオン、「ペルーイボVerruga Peruana」について論文を書くこ
とを決意、この病気の患者の臨床記事を9つ選ぶ。

1885年8月27日 接種の日
場所:ドス・デ・マヨ病院、メルセデ協会の一室において。
施行:内部および外部助手長;レオナルド・ヴィヤル教授(Leonardo Villar)、エ
バリスト・チャベス医師(Evaristo M.Chavez)、ホセ・セバスチャン・ロドリゲス
(Jose Rodriguez)、フリアン・アルセ(Julian Arce)。
接種について:患者カルメン・パレデス、ベッド番号5、メルセデ協会

1885年8月27日午前10時:
Evaristo M.Chavez医師、接種を行う。カルメンの眉毛上部のペルーイボを柔らか
く液体に浸したものおよび新鮮な血液を、カリオンの両腕、ワクチンを打つ部
位に接種。医師長Leonardo Villar、通学生Jose Rodriguez、寄宿生Julian Arce、そ
の他がこの場に立ち会う。片腕に2箇所ずつ、4回接種される。

1885年8月27日12時:
接種の部位に、目に見えない兆候および目に見える症状があらわれる。

1885年9月17日:(潜伏期間21日)
最初の兆候:普通程度の一般的不快感および左足根間接の痛みによる歩行困難。

1885年9月19日 記述:
「深夜11時30分、激しい体の萎えと衰弱を感じる。30分の後、歯ががち
がちなる程の強烈な悪寒、寒気・・・しばらくの後、衰えは頂点に達し広範囲
に焼けるような熱さを感じる。熱はこれまでになく高い、体温計を読み取る事
不可能、ほんの少しも体を動かす事が出来ないのだ。痛みはもはや全体に広が
っている・・・頭部、そして胸部の伸縮するような痛み、そして腹部・・・
骨の痛み、間接、そして手足の筋肉。その他の痛みは、ある神経の道筋に沿っ
て、筋肉を征服せんと努力をあるいは血圧を上昇させている・・・」

1885年9月19日−28日:
前からの症状悪化、他の症状もあらわれる:悪寒を伴う高熱、不眠、吐き気と
悪心、嘔吐。
昏睡:貧血と下痢により顔面蒼白。

1885年9月28日:
ホセ医師(Dr.Jose Maria Romero:1888−89年にかけての国立医学校(la
Academia Nacional de Medicina)初代校長および眼科学校(la Catedra de
Oftalmologia)設立者)により、初めての医療処置が与えられる。その時まで、
医学的手当ては6人の級友と1年生のエンリケ・イザギレ(Enrique Yzaguirre)に
よって行われていた。9月28日から10月2日にかけて症状は悪化の一方。

1885年10月2日:
過酷なほど激烈に衰弱したカリオンは、臨床的確信をもって、次の宣言を行う。
「今日まで、私は、接種によるベルーガの侵入にのみ自分は侵されていると信
じていました、つまり、あれらの貧血の時期が発疹よりも先に表れていたので
す。しかし今、自分はしっかりとした確信を持って、私は、我らが友オリウエ
ラ医学生(Orihuela)が亡くなったところの熱病に冒されています、『これをもっ
て、実験は明白です、オロヤ熱とベルーガは同じ原因を持つということが、事
実として認められました、かつて一度、アウレリオ医師(Dr.Aurelio Alarco)から
お聞きしたように・・・。』」

1885年10月2日:初めての集団診察。次の医師たちによって構成される。
Laonardo Villar,Mariano Mecedo,Evaristo Chavez。鉄による処方箋を行う。

1885年10月3日:朝、リカルド・フローレス医師が訪れる。(Dr.Ricardo
Flores:最初の顕微鏡、最初の文字をうつ機械、最初の自動車をもたらしたと
言われる人物、寄生虫学研究所設立者) リカルド医師はカリオンに血液検査を
行い、3mm中に1,085,000もの赤血球があることを明らかにする。大きな病院
か診療所へ移ることを勧める。

1885年10月3日、フローレス医師によってカリオンに施された検査によ
り、ペルーに、内部医学における重要な専門である血液学診療所が誕生。

1885年10月4日:午前11時、カリオンをフランセサ診療所(la Clinica
Francesa)もしくはマイソン・デ・サンテ(Maison de Sante)へ手術のために移動す
る。Villar, Romero, Flores, Chavez医師によって構成された2度目の集団診察で
の忠告による。手術は、輸血専門医オレ(Ore:Leonardo Villarの長)による輸血
から成っていた。
10月4日:それら集団診察を行った医師の大半の意見であったにも関わらず、
輸血は延期される。患者の失望は大きく、知覚を危うくしながらベッドへと至
る。それ以前に彼は、1年生のイザギレにむかい、こう話していた、
「私はまだ死んでいないよ、友よ、さあ今度は君達が、この私が始めた仕事を
終わらせる番だよ、私がたどった道をつぎながら・・・」

1885年10月5日 月曜日 深夜11時30分〜11時40分の間
自らの接種の体験により、重度の貧血症高熱(la Fiebre Anemizante Grave)あるい
はオロヤ熱(Fiebre de la Oroya)と、発疹性イボ(la Verruga eruptiva)の病原学的お
よび発病のつながりについて証明しながら、医学の殉教者はMaison de Santeで
逝去。

1885年10月7日 午前9時
警察病院関係者(los Medicos de Policia)による検死解剖がMaison de santeにて、
以下の医師によって行われる。Ignacio la Puente, Leonardo Loli, Manuel M.Vega。
10月7日水曜日 午後3時、埋葬
リマのいくつかの通りを徒歩で巡りながら墓地へ(el Campo Santo Cementerio
Prebistero Maestro)、午後6時着。
教授たちと学友による追悼の辞 Dr.Mariano Macedo,  Almenara Butler(小児科
学研究所設立者)医大生Manuel Grados, その他の医師も言葉を述べた
(Dr.Showing, Dr.Enrique Metanza)。
カリオンの墓地:殉教者の遺体は3つの墓に眠っている。オリジナルの墓と、
寄付金によって建てられた霊廟と、ドス・デ・マヨ病院の慰霊碑に。

1885年10月5日
 カリオンの級友達の行動と、政府機関医師ペドロ(Dr.Pedro Abraham del Solar)
とエンリケ(Enrique Caravedo)の協働により、次のようなタイトルの小冊子が発
行される。
『La Verruga Peruana yDaniel A. Carrion y en ceremonia solemne Mariano Alcedan
propone como nombre de la afeccion unificada "ENFERMEDAD DE CARRIO'N"
(ペルーイボ、ダニエル・カリオン、マリアノ・アルセダンの厳粛な儀式に
よって、疾患の統一した命名「カリオン氏病」を提唱する)』