ダニエル・カリオン医学生について


ダニエル・カリオン医学生について 〜一牛 雄司氏より

ダニエル・カリオンについて、会津野口物語を書き続けて下さってるこの方からそ
の名を聞くまで、私は何も知りませんでした。生徒達に聞いてみたところ、「医学の
殉教者」「野口英世と一緒に研究した」などという答えが返ってきました。そう、ダ
ニエル・カリオンこそ、ペルーの人々の心に今なお残る真の英雄、ぺルーのノグチと
もいうべき方だったのです。
会津でカリオンと野口英世のつながりについて研究を続けてらっしゃる一牛氏からノ
グチ学園の子供達に、私を通して伝えられたらと、物語に寄せたメッセージを頂いて
いたので紹介したいと思います。
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野口博士は南米で黄熱病の研究だけしていたわけではありませんでした。ダニエル・
カリオンのことは、みなさん知っていますね。
自分の体を実験台にして、オロヤ熱とペルーいぼという病気が同じ病原菌によ
って起こることを証明しようとし、克明に症状を記したノートを残しました。
しかし医学的技法が未熟で記録も失われために、アメリカ人の医師団によって
彼の命がけの研究は否定されてしまうのでした。
黄熱研究の傍ら、この物語に強く心を光れた野口英世博士は、ぺルー滞在の間
にこの問題の研究に着手、帰国後ついに二年の歳月をかけてカリオンが正しか
ったことを証明し学会に発表しました。
黄熱のときはあれほど急いだ博士が、オロヤ熱の研究を発表したのはアクラに
行く前年でした。それまですでに6年の歳月をかけています。研究発表は完全
なものでした。
カリオンが自分の体を実験台にして亡くなったのは1885年、博士がまだ9才の
時でした。計算すると、もしカリオンが生きて野口博士とペルーで会ったとす
れば、博士は43歳、カリオン氏は71歳ということになります。博士は会った
こともない、見ず知らずの青年のためにその研究に再び光をあて、その名誉を
復活させたのです。どれほどカリオン青年の魂が喜び博士に感謝したか、想像
できるでしょう。
博士の熱意は尋常ではありませんでした。死の前年まで続けた長い研究の時間
と労力、そして成功すれば敵を増やすだろう白人社会の掟。それを良しとする
心の原動力は何かと考えたとき、抽象的な人類愛や博愛の言葉では弱いのです。
やはりそこには会津のこころ、誠を貫く至誠、権威をかさに着た理不尽な振る
舞いには断固反発する武の心、汚名を晴らし誠を貫かせ、真実を復権しないで
はおかない義の心、そしてその歴史性。
歴史をひもとけば、会津を源泉として流れだす川がやがて大河となって人類愛
という海に注いでいるのを感じます。同情と共感の熱い涙がその一滴、一滴な
のです。人々の悲しみに無関心でおれないのは、よりよく生きたい願いがそう
させるのでしょうか

想像力の大切さはどれほど強調してもしすぎることがありません。知識は想像
力を刺激し、飛翔の力となるときだけ意味をもちます。想像力があるから他の
痛みを思い遣ることもできる。時を超え空間も何の妨げることができない。た
だ欲望や不安や恐れが、その翼をもぎ取る。対抗しうる力は勇気。勇気は希望
から産まれ、希望は熱い感動から、感動は素晴らしい共感から生まれてくる。
「カリオン病」という名は、ペルーいぼとオロヤ熱という二つの異なった症状
の病気が、同じ一つの病原菌によって起こることをカリオンが証明したと信じ
たペルーの医師たちによってつけられました。そのあとその真相を確かめるた
めにハーバード大の医学研究チームが乗り込み、その名門の権威のもとに、若
きペルー医師の研究は未熟な思い込みによるものとして否定されます。克明に
症状を記したノートが残されたのみで、細菌学的研究の未熟さから、研究の名
に値しないと判断されてしまうのです。なぜかそのノートも紛失してしまいま
す。研究チームは短期間の間に精力的に研究を進めました。そして細菌学的に
オロヤ熱とペルーいぼとは、完全に別の病気あると断定しました。ここにおい
てカリオンの研究は誤りと決定し、カリオン病の名は医学史にまぼろしと消え
ました。黄熱研究の傍ら、この物語に強く心を光れた野口英世の目には、ハー
バードの医者たちの研究こそおざなりで、基本的な思い込みによる飛躍がいく
つかあり、真剣な追求が足りないと直感しました。それで患者の血液をアメリ
カに持ち帰り、研究を続けました。

ここで想像力を働かせてほしいのです。かりにも白人社会にあって、そのもっ
とも権威ある大学の決定を覆すことが、英世の経歴にとってメリットなのかど
うかです。研究テーマは他にたくさんありましたから。トラホームの研究を続
けていたし、蛇毒の論文も時折まとめていました。英国政府からいまの口蹄疫
(こうていえき)の研究を依頼されていました。ツツガ虫病に関心を示し、小林
先生とは近い将来癌の研究も始めることを約していました。〈当時はまだ癌は
死亡率の高い病気ではなく梅毒菌による死亡率がちょうど現代のエイズのよう
に世界的に問題となって広がっていたのです。〉同時に複数の研究をこなし、
必要なことは研究の広がりを恐れず次々に手をつけていく英世のやり方は、人
間発電機の名にふさわしい型破りな研究態度でした。その分人の十倍も実験動
物を使い、標本を作りました。目を通すべきサンプルは際限なく広がり、人並
みはずれた馬力物を必要とします。ですから睡眠時間を削って深夜遅くまでと
いうイメージは虚構です。それでは体がもたない。昼となく夜となくいつでも
どこでも眠いとき寝ていました。短時間睡眠の名手で、それは戦場にいる兵士
と同じ精神でした。野口博士が研究を続けるために、相当の白人社会の敵意を
覚悟し、地位や名誉の毀損を恐れず不退転の覚悟で取り組んだか、皆に想像して
ほしいのです。

黄熱のときはあれほど急いだ博士が、オロヤ熱の研究を発表したのはアクラに
行く前年でした。それまですでに6年の歳月をかけています。研究発表は完全
なものでした。博士亡き後もチルデン嬢が博士の論文を整理して発表するなど
(今日博士の医学的研究の業績に否定的ないかなる医学関係者もこのオロヤ熱
の研究だけは認めています。)
さて博士の優れた研究によって誰の目にもハーバードの誤りは歴然としていま
した。それに加え人道上も若きペルー医師の命を捧げた研究を軽々しく扱い、
権威の上にアグラをかいて否定した暴挙と映るのです。ハーバードの面子は地
に落ち、研究者の前途は絶たれてしまう。真理の前に差別はあってはならない
けれど、左右されるのは遠いペルー人の命、守るべきは白人社会の名誉と考え
てもおかしくない時代でした。しかし野口博士はそう考えませんでした。博士
はカリオンの名誉を復権しようとしたのです。そのために充分な時間と反論を
許さない実験データを周到に準備したのでした。

野口博士はカリオンの名誉のためにこの研究をしました。だからこそ入念な研
究を重ね完璧を期して学界に発表したのです。アフリカに出立するときも残り
の研究を指示し、博士の死後二編の論文が追加されました。では黄熱ではなぜ
あれほど発表を急いだのか、そのことがペルーの人に一番分かって欲しいこと
です。それが分かればなぜ会津の武士道が時勢の有利を待たず、行動に誠を求
めて立つのかが理解できるでしょう。